Vol.53 -- 2004 年 09 月号
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流山鉄道の小金城址駅近くに小高い丘がある。ここは大谷口公園と呼ばれており、地域住民が集う憩いの緑地となっている。広さは約七五〇〇平方メートル。急勾配の丘に巨大な土塁や堀の跡が存在する。その特別な地形は、戦国時代に東葛地区一帯を支配していた豪族高城氏が築いた小金城の跡地であることを示す。
小金城の実際の広さは約四五ヘクタール(南北六〇〇メートル、東西八〇〇メートルほど)であったと推測され、関東でも類を見ない巨大な大城郭であったという。しかし、残念なことに小金城の詳しい構造を明らかにするものは見つかっていない。小金城は幻の城として四五〇年以上経った今も、われわれの探求心を掻き立てるミステリアスな存在である。
小金城主の高城氏は、下総国の守護大名であった千葉氏の一族。そのはじまりは寛政元年(一四六二年)に松戸市栗ヶ沢に高城氏が定住し、領地を支配したことによる。やがて隣地根木内に城を築き、さらに天文六年(一五三七年)、この大谷口に小金城を完成させたのだ。支配地域は小金領といわれ、現在の流山市、柏市、沼南町、松戸市、鎌ヶ谷市、我孫子市、船橋市、市川市の一部に及んでいた。高城氏はその後勢力を拡大し、関東の一大勢力となった。最盛期、天正年間(一五七三年〜)には江戸川向こうの二合半領(埼玉県三郷市)も含み、葛飾区、江戸川区の一部、神奈川県海老名町、横浜市戸塚区飯島町をも支配し、戦国末には家臣一〇〇〇人余、軽卒二〇〇〇人余がいたとされる。勢力拡大とともに小金城の名もまた関東一円に知れ渡ったことであろう。
しかし、栄華を誇った高城氏も天正一八年(一五九〇年)に豊臣秀吉による小田原攻めにより、北条側について戦い敗れてしまう。小金城も落城し、徳川家康の支配下に入ることになる。その後、一時は徳川家康の五男信吉の居城となったが、信吉が水戸城に移ると廃城となった。
大谷口公園で見ることができる堀は「畝堀」という敵の襲来を想定して造られた堀で、堀の中にさらに堀があるという珍しい姿をしている。実際に発掘された場所で復元されており、かつても同じ堀があった場所に畝堀が再現されている。広さは間口七メートル、深さ三メートル、畝の高さ九〇センチほど。側面に粘土を塗り、底の部分には柔らかい土を入れ、敵が攻め入るのを防ぐ役割を果たしていた。畝堀は戦国時代に小田原の北条氏の館に採用されていたとされ、この発見により東葛地区一帯は北条氏の支配下にあったと推測されるようになった。
現在、丘の頂上は憩いの広場となっている。この地で高城氏は栄え、東葛地域一帯と周辺地域をも支配していた。周辺諸国にその名を知られる巨大な要塞は時として人々に脅威を感じさせたのかもしれない。四五〇年以上の年月が経ち、今はただひっそりと佇むだけである。
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