特集記事
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北辰一刀流の開祖、千葉周作が松戸ゆかりの人であることを知っているだろうか。まだ16歳の若者だった千葉周作は、父・幸衛門とともに松戸へやってきて、青年期を過ごした。幼少の頃より、父から北辰夢想流を学んで剣の道を歩んでいた周作は、松戸宿の小野派一刀流・浅利又七郎の道場へと通う。 浅利又七郎は、一刀流の祖「剣聖」とまで呼ばれた伊藤一刀斎の剣法を継承する明眼の達人であった。明治維新の折、西郷隆盛と勝海舟の会談を実現させ江戸城無血開城を成し遂げた幕臣・山岡鉄舟も浅利と立ち合いで完敗したというから相当な腕前の持ち主だったのだろう。現在も松戸の宝光院には、浅利の墓が残り、医業に転じた周作の父とともに眠っている。 周作は、浅利の薦めから浅利が学んだ中西道場へも入門する。次第にその頭角を現していき、才能を見込まれて浅利家の養子となった。もっぱら剣術の教授に専念するようになるが、剣の術技に関して、養父となった浅利と意見が合わず、遂に妻とともに養家を去り松戸を後にした。関東を修行の旅で回ったのち、日本橋品川町に道場を構え、さらに神田お玉ヶ池に移して玄武館と称した。こうして北辰一刀流が誕生した。後に坂本竜馬など歴史に名を連ねる優秀な人物達を門下に抱えることとなる。 ちなみに、司馬遼太郎著「北斗の人」は松戸を舞台に書かれた小説で、破天荒な性格ながら優しさと繊細さを持ち合わせた千葉周作の松戸時代を知ることができる。 |
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志賀直哉は、明治16年(1883)宮城県に生まれ、学習院を経て東京帝国大学に進みますが中退。学習院在学中には武者小路実篤、木下利玄らと回覧雑誌「望野」をつくり、明治43年4月「白樺」を創刊します。大正4年(1915)、柳の薦めで我孫子にやって来た志賀は、大正6年に中篇の代表作となった傑作「和解」を書き、翌年1月リーチの装幀による「夜の光」を出版。これによって大正文学における地位を不動のものとします。既存の文学者の権威には一切従わず、自分自身の心を赤裸々に凝視し、自己の心身のリズムに完全に合致させる文体をつくることで、古びることのない力強く魅力的な作品を産み出していきました。日本近代文学の中で最も優れた「描写力」を持つと評される志賀直哉の代表的作品の多くは我孫子時代に書かれたものです。中篇三部作のうちの2作「和解」と「或る男、其姉の死」。20世紀の日本最高の短篇と言われる「城の崎にて」「赤西蛎太(かきた)」「小僧の神様」「焚火(たきび)」。唯一の長篇「暗夜行路」の前篇と後篇の半分強、などがそうです。 志賀は生涯のうち二十数回転居し、その移り住んだ場所にちなんだ作品を書きつづけ小説の神様と称され、昭和46年(1971)88歳で亡くなりました。手賀沼のほとりで育まれ、大きく発展した白樺派。その活動に触れ、ひとつの時代を創り上げた若者たちの古き良き時代を想うには白樺文学館へ。 |
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