Vol.31 -- 2002 年 11 月号
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↑昭和37年頃の松戸駅 |
●2.5キロから始まった新京成電鉄
昭和20年(1945)の終戦とともに鉄道連隊はなくなり、軌道敷だけは残されていました。これをめぐって京成電鉄と西武鉄道が競いあいますが、結果的には千葉県内を主要な経営基盤としていた京成電鉄が獲得します。昭和21年(1946)新京成電鉄が発足し、役員9名、社員27名の出発でした。資材不足の中、昭和22年(1947)新津田沼〜薬円台の2.5キロが開業します。一両の電車で1日43往復、時速30キロで運転時間は5分でした。開業の日は、関係者や試乗客を乗せて走る電車を沿線の農家の人たちは総出で手を振り迎えたといいます。乗客の多くは行商や買出しの人たちで、座席に野菜籠を置き自分たちは立ったままであったといいます。こうして、わずか2.5キロから始まった新京成線は、次々に路線を伸ばし、資材、資金の確保に苦労しながらも昭和30年(1955)に松戸までの全線が開通します。待望の松戸駅乗入れは、松戸市にとっても商店街にとっても大きな喜びであり、店の軒先には「祝新京成開通」の提灯が掲げられ、花火や演芸大会などを盛大に催したといいます。また、全線が開通した昭和30年代は、日本住宅公団による大規模な団地が次々と建設され、また民間の住宅開発も進められ、沿線地域の発展と共に通勤、通学の足として欠かせない大切な交通機関となったのです。
総延長26.5キロ、駅数24駅の新京成線。時間を見つけて、ゆっくり沿線めぐりをしてみるのも、新しい発見に出合えるかもしれません。新京成電鉄は、今も新しい時代環境の中で私たちと共に走り続けています。 |
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↑↓ワンボックスの松戸新田駅と下校時の子供たち。共に昭和36年頃。
松戸新田、稔台、八柱など周辺の子供たちは電車で中部小学校へ通っていました。 |
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●ワンボックス駅
開通当時の駅数は21駅で宿泊可能な駅は12駅しかなく、後はワンボックスと呼ばれた一人勤務の駅と無人の駅であったといいます。松戸市内では、松戸新田と稔台駅がワンボックス駅で、松戸新田駅を例にとれば、毎朝8時に出勤し現金などを引継いで勤務につき、その日の勤務が終わると収入金、乗車券箱や磁石式携帯電話などを持ち、最終列車に乗り宿泊施設のある上本郷駅に出向いて泊まる。翌朝は一番列車で松戸新田まで戻り、8時まで勤務するというものでした。駅舎の広さは畳一帖ほどもなく、そこに乗車券箱、電熱器、勤務者が座る回転椅子があり、夏は直射日光と軌道の照返しで暑く、冬は外套を着ていても寒さが身に染みたといいます。ご飯は電熱器で炊くもののおかずを買う暇もなく、行商人から佃煮などを買ったり、近所の方からのありがたい差入れもあったといいます。また、駅周辺の道路は舗装されていない所が多く、霜解けや雨季の季節は、駅に通じる道はぬかるんで長靴でなければ歩けないほどで、雨が降ると乗客の多くは自宅から長靴で来て、駅で革靴やハイヒールに履き替えて電車に乗るため、主要な駅では乗客のための下駄箱を備えていたといいます。何とものどかで、駅務員と地域の人々との微笑ましい光景が目に浮かびます。このワンボックス駅は、昭和39年(1964)頃まで続きました。
◎参考資料:新京成電鉄50年史・イラスト松戸物語
◎協 力:新京成電鉄OB 伊藤忠 氏・針谷博基 氏 |
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