Vol.30 -- 2002 年 10 月号
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↑昭和41年、五香駅での300型。
◎参考資料:新京成電鉄50年史・イラスト松戸物語
◎協 力:新京成電鉄OB 伊藤忠 氏・針谷博基 氏 |
松戸市内には、常磐線、千代田線、武蔵野線、流山線、北総線、新京成線が乗入れています。中でも、松戸、鎌ヶ谷、船橋、習志野の4市を横断し、この下総台地の歴史である牧の上を走る身近な電車が新京成電鉄です。私たちが暮らす下総台地は、千年以上の昔から馬の放牧場として利用されてきた歴史を持っています。平安時代には既に牛馬を飼育する牧が開かれ、徳川の時代には幕府直轄の牧として経営されてきました。牧では勇壮な鹿狩りや野馬捕りが繰り広げられましたが、野馬の世話や牧の維持管理に駆り出される農民の苦しい生活もありました。明治になると無職無産の窮民対策として牧は開放され開拓の苦悩が始まります。一方、習志野に陸軍の演習場が設けられ、軍事施設が次々と設置されます。その一つが鉄道連隊であり、大正の初めから昭和初期にかけて敷設された演習線を引き継いだのが新京成電鉄です。
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●鉄道連隊の演習線だった
明治新政府は、列強への対抗から富国強兵政策を推し進め軍の演習場を東京近郊に探していました。広大な野馬の放牧場であった下総台地は、東京に近く大規模な演習が可能な最適な地でした。明治27年(1894)の日清戦争では、補給輸送が馬の背か荷馬車といった原始的な方法で全くのお手上げ状態であったといいます。補給の大切さを思い知らされた陸軍は、明治29年(1896)に鉄道隊を創設します。明治37年(1904)の日露戦争では、補給線を確保し兵員や軍用物資を運び、大きな戦力として認められ、明治40年(1907)手狭になった鉄道隊は東京から千葉の津田沼へと移転し、演習線を敷設します。演習線は、千葉から津田沼と津田沼から松戸までの45キロを1運転区として編成され、距離を伸ばすため、空地を縫うように曲がりくねって建設されたといいます。多少の変更はあったようですが新京成線がくねくねと蛇行しているのは、このためでしょうか。どちらにしても、この演習線が新京成電鉄線の元となるのです。 |
●松戸駅
明治29年(1896)現在の常磐線である田端〜土浦が開通し松戸駅が開設されます。これは常磐炭鉱の石炭を京浜工業地帯に運ぶためのものでしたが、駅の建設にあたっては河岸舟運業者などの反対があったといいます。その当時は江戸川の水運が盛んで、繁華街は河岸に沿ってありましたが、鉄道は商売敵であり後ろに相模台地の山をひかえ、河岸から離れた町はずれの場所に駅は建てられたようです。今は中央公園、聖徳学園、相模台小学校、千葉地方検察庁、千葉地方裁判所などがある相模台ですが、明治39年(1906)には松戸競馬会が開かれ、大変な人気であったといいます。しかし世論は競馬に対して厳しく、賭け事としての批判が高まり経済的にも困窮し、大正7年(1918)に相模台の土地を陸軍に譲り中山へ移転します。現在の中山競馬場の前身は、この相模台の松戸競馬場であったのです。大正8年(1919)松戸競馬場の跡地に陸軍工兵学校が開校します。第1次世界大戦が終わった翌年で、陸軍は工兵の役割の重大さを痛感し進歩する近代戦に対応できるような知識や術を教育するためのものでした。工兵学校から八柱までの路線は、工兵学校によって敷設されました。
(11月号へつづく) |
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