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過労死の救いになるのか
「ホワイトカラーエグゼンプション」
ホワイトカラーとは英国で生まれた言葉、特定専門職務を行い雇用者から報酬を受け取る被雇用者の総称だ。かれらは日本で言うワイシャツ(白えり)を着てタイを締めて働いていた。エグゼンプションとはその身分では義務にならない「項目」を言うが、今回の文脈では、ホワイトカラーは「残業」を命じられない身分の従業員を意味する。
安倍政権は今回、年収一千万円以上の従業員に対して「長時間労働」(時間主義)に代わって「成果主義」を取入れることを提案している。労災に認定される「過労死」を防止したい企業の要望に応えると言うことらしい。うがって考えれば、企業は成果が上がらないで膨張する残業代の節約のために、報酬を下げると言う恐ろしいことも考えているらしい。
結論から先に言えば、安倍政権による「ホワイトカラーエグゼンプション」の制度化により日本が世界から汚名をもらった「過労死」が減るかどうか疑わしい。派遣社員制度により労働条件が悪化したことの二の舞になることも危惧する。
契約理念に乏しい日本社会
日本では、被雇用者は雇用者と立場が平等ではなく「雇っていただく」と言う「儒教的上下関係」がある。それはすべての入所誓約書の文面に表れている。西欧諸国では雇用者と被雇用者は「対等な立場」で「雇用契約」を結ぶ。欧米では、日本のように「金を払う人は王様」と考えない。日本社会では儒教思想が支配したので、何かにつけ上下関係が濃厚だ。日本では勤務地や職位が変る度に従業員に辞令を出すが、これは命令で「職務内容」の記載もなく、従業員との合意の署名も取らない。日本での「職務内容」は「何の身分で業務を果たす」と言うだけが多い。米国の「職務内容」は具体的で変る毎に労使が「条件を確認」し「双方合意の署名」を入れる。
私が米国の通信サービス企業に入社したときは、日本で言う業暦者だった。この企業の一般求人項目は、「勤務事業所」、社員か契約社員かの「雇用身分」、「職務内容」、「労働時間」、「賃金」、「従業員福祉の有無」である。この企業での通常の雇用は「時給」で報酬が決まる契約社員から始まる。時給換算で社員と契約社員とは一般に差がないが、マルチメディアやソフトウエア分野など特殊技能は、業界の雇用市場を反映して、一般技術者よりも契約社員の時給はかなり高めだ。契約社員には従業員福祉の適用はなく、職場の業務保険(労災と財産毀損)も自腹になる。一年以上勤めて、社員の公募があれば、この職に優先的に応募できる。
労働組合と残業手当
戦後日本で実施が始まった企業の労使協定では、企業側の管理職以外の一般従業員は労働組合に加入し、時間外労働については割増賃金や不当解雇などに対する組合の保護を受けていた。したがって、日本企業(雇用組織)の労働組合員には、学歴に関係なく「時間外労働の恩典」があった。日本で大学新卒として大企業の入社面接を受けた私は、普通どおりに労働組合と健康保険組合に加入した。入社して十数年位経ち課長待遇になり、人事部が来て私に辞令をくれ、今日から「会社側になったから出勤時間の制限はない」と言い残して部屋を出て行った。これが「ホワイトカラーエグゼンプション」の一例である。
さて米国では、大学卒は通常「スタッフ社員」と言う身分で企業に雇用され労働組合には入らず、「職務内容」に対して年収額その他の福祉(株購入など)を受ける契約をする。もちろん残業手当などは一般にない。米国ではボーナスは給料の一部ではなく、通勤費補助も家族手当も祝い金も弔慰金も出ない。スタッフ社員は自分の専門能力で企業に貢献し対価を受ける。労働者派遣は米国でも一般的で、ハイテクや事務部門でも極度の不満は聞いていない。
不景気時代の雇用と過労死問題の解決
一九八九年にバブル景気で不動産と株式投資が急騰暴落で多くの金融機関や企業が破綻し、元々国内需要に依存した日本経済は崩れ、長い不景気の道を歩むこととなった。二〇〇〇年頃から不景気に伴って企業が、しばしば労働者の精神肉体を蝕むような過酷な環境に陥れている。これは「社会問題」として、「日本の労働基準法」適用の甘さとして取上げられ、根本的問題解決には程遠い。第一に労使関係の対等化、第二に職務内容の明確化、第三にチームリーダの「管理能力」改善が重要だ。主観的な「時間主義」の日本流は、客観的な「成果主義」の西欧流へ移行し、意思疎通改善と各段階の評価の客観化がプロジェクト成功の近道だろう。