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GE(ジェネラル・エレクトリック)社の創業者というよりも大発明家として有名なエジソン(Thomas Alva Edison)は、1847年2月11日、アメリカのオハイオ州ミランで生まれました。 エジソンの家族は7歳の時ミシガン州のポート・ヒューロンに移住しました。8歳で小学校に入学したエジソンは、先生を質問責めにしました。先生がエジソンの質問責めに耐えられないことを知った母親は、怒って学校を辞めさせてしまいました。母親から勉強を教えられたエジソンは、理解のある両親に守られ、自宅に実験室を作っていろいろな「研究」を始めます。 そして15歳の時、鉄道会社と契約し、汽車の中の1室を借りて、世界初の鉄道車内新聞を発行し始めました。その頃、線路に飛び出した子供を偶然助けるということがありました。助けた子供の父親は鉄道会社の駅長で、感謝感激した父親は、エジソンと話しをするうちにすっかり気に入って当時最先端の電信の技術を教え込むのです。 電信の技術を覚えたエジソンは、その後ほとんど無一文の状態で全米をさまよいながらあちこちで電信技師の仕事をしました。21歳の時ニューヨークにたどりついたエジソンは、電信会社で月300ドルの仕事をしながら、いろいろな発明をしていたのですが、翌年株価表示機の特許を取得。これが4万ドルで売れて、彼はプロの発明家としての第一歩を踏み出すことになります。 このあと彼は、複写機、電話機、蓄音機など次々と発明します。また31歳の時、1878年10月24日に「エジソン電灯会社(Edison Electric Light Company)」を設立したのを皮切りにいくつもの会社を設立。これらの企業群はのち1889年に合併して「エジソン総合電気会社(Edison General Electric Company)」となり、これが1892年にThomson-Houston Company と合併してGeneral Electric Company となって現在に至っています。 1914年67歳の時、エジソンを不幸が襲います。研究所が火事になり、試作品や書類など膨大な資料が焼けてしまったのです。しかし彼はめげませんでした。「なに、また今から始めればいいんだ」。平然と言ってのけた彼はその後も合成ゴムの研究など精力的な活動を続けました。エジソンは1926年以降は会社経営からは身を引きましたが、発明研究は1931年10月18日に84歳でなくなるまで続きました。 エジソンの残した有名な言葉があります。 「天才とは1%のひらめきと99%の汗である」 |
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