Vol.46 -- 2004 年 02 月号
|
今年のNHK大河ドラマで取り上げられ、関連書籍などが次々と出版されている「新選組」。その局長を務めた近藤勇が官軍に捕まった地が流山だったということをご存じですか?
現在でも根強いファンが多い「新選組」。今回は近藤勇ゆかりの地を取材してきました。 |
|
↑住宅街にひっそりと佇んでいます。 |
流山電鉄・流山駅から徒歩3分。住宅街の一角に近藤勇陣屋跡はあります。現在、株式会社秋元が建っているその場所には当時、流山きっての豪商、酒造家長岡屋がありました。
新選組は慶応4年(1868年)正月鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊と改名。その後、甲州勝沼でも戦いますが敗れてしまいます。そして、江戸から五兵衛新田(現足立区綾瀬)に拠点を移して再起を計り、流山に入ります。地元の言い伝えでは、近藤が流山入りしたのは3月20日頃といい、近藤は大久保大和・土方は内藤隼人と名乗り、20数名であったと言われています。なぜ流山を選んだのかは不明ですが、当時の流山は江戸川の水運によって大いに栄えており、幕府や水戸浪士が付近にいたこともあって、兵力増強の上でも適地であったそうです。4月3日「流山に賊徒が集まっている」という情報を聴取した官軍の東山道隊の参謀・香川啓三の指揮する一隊が長岡屋に迫ります。近藤勇はこの時すでに時勢の流れを見極め、これ以上官軍と戦うことは徳川慶喜公の志に背き、また、流山に兵火をあげることは町の人々を苦しめることになるとして諸人を救い、自分一人で死んでも恨みはないと決意を固めたといいます。近藤勇が自首したのは、慶応4年4月3日の夕刻。その後板橋に護送された近藤は、4月25日斬首されます。時に近藤勇35歳。自分の中の誠を貫いた生涯でした。 |
|
|
近藤勇陣屋跡 住所/流山市流山3丁目2-108
アクセス/総武流山電鉄、流山駅より徒歩3分
|
|
その他の記事とバックナンバーのリンク
徳川文武の「太平洋から見える日本」 -- 2024年09月号 (Vol.293)
徳川文武の「太平洋から見える日本」 -- 2024年08月号 (Vol.292)
徳川文武の「太平洋から見える日本」 -- 2024年07月号 (Vol.291)
徳川文武の「太平洋から見える日本」 -- 2024年06月号 (Vol.290)
徳川文武の「太平洋から見える日本」 -- 2024年05月号 (Vol.289)
徳川文武の「太平洋から見える日本」 -- 2024年04月号 (Vol.288)
徳川文武の「太平洋から見える日本」 -- 2024年03月号 (Vol.287)
徳川文武の「太平洋から見える日本」あ -- 2024年02月号 (Vol.286)
徳川文武の「太平洋から見える日本」 -- 2024年01月号 (Vol.285)
徳川文武の「太平洋から見える日本」 -- 2023年12月号 (Vol.284)
特集記事アーカイブ
バックナンバーの目次へ