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特集記事

Vol.28 -- 2002 年 08 月号
水戸徳川家に生まれた慶喜と昭武
【兄弟が生きた時代】
↑昭武とリヨン(徳川文武氏所蔵)
●幕末と明治維新
 嘉永6年(1853)、開国を要求するペリーの来航により、わが国は大きく揺れ動きます。その激動の時代に生きた慶喜と昭武は、自らの意思とは無関係に御三家に生まれてきた宿命を果たさなければなりませんでした。また、平安中期から江戸時代まで約千年も続いてきた小金牧の歴史も、この時代変革の中で大きく変わっていきます。とくに街道筋で水戸家とも密接な関係にあった松戸宿と小金町は、過激な水戸藩士や蕃民、幕府と水戸藩内部の抗争など、不安と緊張の渦に巻き込まれ混乱が続きます。また新政府は、失業した武士や商人など無職無産の人々を牧に入植開墾させ、小金牧には約三千人が送られてきたといいます。

●最後の将軍 徳川慶喜(1837年~1913年)
 慶応3年(1867)10月14日、十五代徳川慶喜は、大政を奉還し大阪城に入ります。しかし翌年1月の鳥羽伏見の戦いに敗れた後、夜陰に脱出。開陽丸に乗り移り江戸に向かいました。そして慶応4年(明治元年)2月12日、江戸城を後にした慶喜は上野の寛永寺に入り、4月11日の江戸開城の日、将軍職を捨て故郷の水戸に向かって出立したのです。その夜、松戸宿に一泊しましたが昨日に変わる今日の身。11才で一橋家に入り、30才で徳川宗家を継いだ慶喜です。少年時代には御狩場で楽しんだ道すがら、松戸神社辺りの木陰で休み黄門様のエピソードを懐かしんだこともあったのではないでしょうか。しかし朝敵となった今、松戸の思い出にひたる間もなく追われるように旅立たなければならなかった宿命でした。一方、徳川家縁故の人たちは一団となって江戸を落ちていきました。旧幕府陸軍奉行の大鳥圭介の率いる幕兵ニ千人は、宇都宮、日光に移動する途中、松戸宿、小金町に数泊しますが、その幕兵の乱脈ぶりは目に余るものがあり、寄付の名目で宿賃を踏み倒したり、あちこちで金品を略奪したり勝手し放題であったといいます。また、これより20日ほど前、新政府に敗れた新撰組の近藤勇らは、再起を計って下総流山に滞在しましたが、土方歳三の説得にもかかわらず「汚名を残したくない」と潔く自首し板橋で処刑されました。流山で近藤と別れた土方は大鳥と共に行動し松戸宿にも泊まります。東北各地を転戦しながら仙台で旧幕府海軍の副総裁であった榎本武揚らと合流し北海道の五稜郭で戦死します。この時、榎本、土方らを追討するよう願い出たのは、明治2年(1869)秋、謹慎を免ぜられた慶喜でした。 慶喜は、朝廷と幕府、雄藩(薩摩、長州、会津、越前)や外国との複雑で微妙な幕末の政治動向の中で、幕府の軍政改革、機構改革を押し進め、外交面でも外国公使との交流などに力を注ぎます。結局、大政奉還、鳥羽伏見の敗戦で幕府の政治は終焉を迎えますが、ペリーの黒船来航から明治維新までの激動の時代に単に最後の将軍というだけではなく、国内外の情勢変化に対応し苦悩しながらも大改革に取組んだ改革者としての一面も見過ごすことはできません。
↑将軍時代の徳川慶喜
(戸定歴史館所蔵)

●弟・徳川昭武(1853年~1910年)
 昭武は、慶喜の弟でペリーの黒船が来航した嘉永6年(1853)に生まれました。兄慶喜と同様、昭武も幼い時から中央政局の渦に巻き込まれていきます。12才の時、京都御所を警備するため百人の水戸藩兵を率いて京都へと上京します。難しい政局の判断などできるはずもなく、御三家の子どもとしての役割を果たさなくてはならない宿命でした。 慶応3年(1867)15才の昭武は将軍慶喜の名代としてパリ万博に派遣されます。慶喜は自分の後継者になり得るのは昭武しかいないと会津松平家への養子入りが決まっていた昭武をなかば強引に将軍を出し得る清水徳川家へ養子入りさせた上、パリへと送り出したのです。さらに次代の指導者としてふさわしい最新の知識を身に付けてくることを期待して長期留学も命じていました。また、昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら使節団の人々は、ヨーロッパの知識を持ち帰り明治維新後の近代化に大きな足跡を残すことになります。昭武一行は万博終了後、ヨーロッパの条約締結の国々を歴訪。訪問を受けた各国の新聞は、慶喜には子どもは無く、昭武は寵愛厚い弟であり次期将軍候補として「プリンス・トクガワ」と報じました。しかし慶応4年(1868)幕府崩壊の知らせが届きます。その直後、兄の水戸藩主慶篤が急死。留学を中断して帰国した昭武は最後の水戸藩主となります。昭武の帰国途中の日本では先に記したように、榎本武揚らは五稜郭を占領し最後の抵抗を続けていました。昭武が上海に寄港した時、榎本軍の指導者になって欲しいという要請を受けます。この申し出は危険すぎると断りますが、帰国した昭武は逆に新政府から榎本軍討伐を命じられるのです。また、最後の戦場となった箱館戦争で敵味方問わず治療したという高松凌雲は、パリへ随行した昭武の医師でもありました。

●戸定邸
 慶喜は、水戸から静岡と場所を移しながら謹慎生活を送ります。明治2年(1869)秋に謹慎解除となりますが、政治的な事柄との関りを避け政治からは遠い趣味の世界に没頭していきます。一方、昭武は、明治16年(1883)水戸徳川家当主の座を甥に譲り隠居生活を決意し、松戸に戸定邸を建設。翌年に完成します。  30年間の隠棲生活を終えた慶喜は明治30年(1897)東京へ移り住み、翌年には維新後初めて天皇に謁見。明治35年には公爵を授けられます。交流を欠かさなかった慶喜と昭武ですが、とくに東京に出てきてからの慶喜は、戸定邸を頻繁に訪れるようになります。共に狩猟、魚釣り、焼き物、写真撮影など多彩な趣味を持ち、中でも戸定邸をはじめ明治時代の松戸の様子を写した数々の写真は、私たちにとっても大切な松戸の記憶となっています。

<戸定が丘歴史公園>
★公園内には戸定邸と歴史館があり松戸を代表する名所として親しまれています。
★小中学生のための歴史展示「徳川昭武の生涯」開催中!
 (9月1日(日)迄)
 昭武の生きた大社会変革の時代を易しく解説。幕末から明治末期までの貴重な資料や写真が展示され、当時の松戸の風景も垣間見ることができます。

電話 047-362-2050
会館時間 9時30分~17時(入館16時30分)
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)
松戸駅東口から徒歩10分

★協力 松戸市戸定歴史館
★参考資料 戸定歴史館発行「徳川昭武」

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