Vol.154 -- 2013 年 02 月号
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第47回<米国の政治に貢献した偉大な日系人たち>
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米国へ渡った日本人出稼ぎ労働者たち
十九世紀後半は、ハワイや米国本土が求人側であり、日本の役所や民間の仲介業者を介した日本人出稼ぎ労働者が求職側だった。求人理由は、砂糖の需要が急激に増え、ハワイで農場労働力が不足、カリフォルニアの金鉱採鉱と鉄道建設と農産物需要が増え、米国本土で労働力が不足したためだ。求職理由は、明治維新で武士が経済的に没落、明治・大正・昭和の日本で人口の増加に対して、飢饉や震災や恐慌のため国内求人市場が狭くなったためだ。米国に渡った日本人労働者は勤勉なため、米国人の労働機会を奪う結果となり、「日本人排斥運動」が起こり始める。さらに悪いことに、満州における日本の軍事的活動に加えて、日本軍がハワイ真珠湾を攻撃したため、一九四二年に米国は十万人ほどの国内の日系米人を国家反逆者として、十箇所の収容所に強制収容した。ハワイ以外の州では、日系人の全財産を没収して競売に出し、一九五六年に強制収容が解放されても、多くの財産は彼らには戻らなかったと言う。
ダン・イノウエさん:
第二次大戦の米国陸軍四四二部隊
イノウエさんに出会ったのは、小泉内閣の時代、スタンフォード大学の東アジア研究所で彼が「日本の戦争責任」と言う招待講演をしたときだ。彼の祖父母と両親は一八九九年にハワイに渡り、彼はホノルルで生まれた。ハワイ大学在学中、日本軍の真珠湾攻撃で米国の第二次大戦参戦、彼は陸軍に志願し、彼が率いる日系兵士からなる第四四二連隊戦闘団はイタリアの森林地帯でドイツ軍に包囲され孤立していたテキサス連隊を救出した。後年、彼は米国軍人として最高の栄誉ある勲章を受章した。彼は戦線で負傷し右腕を失ったため医学の道をあきらめ、ハワイ大学に復学して政治学学士で卒業し、ジョージ・ワシントン法務大学院を卒業し弁護士になった。ハワイ議会議員になり、州の連邦議会下院に米国最初の日系議員として一九五九年に当選した。四年後には上院議員に当選し、ウオータゲイト事件(一九七三年)とイランコントラ事件(一九八七年)で上院調査委員長になるなど、数々の主導的な役割を演じた。また、太平洋戦争における日本の責任について、はじめは批判的であり、強気の小泉政権に批判されたが、後年はすでに謝罪した日本に対してこれ以上追求しないと言う、真の日本人思いでもあった。彼はハワイ出身の民主党上院議員から最終的に仮上院議長(二〇一〇年から二〇一二年に亡くなるまで)に上りつめた。死去に際して遺体は、合衆国議会議事堂大広間に米国議会にとって名誉ある三十二人目の功績者として安置され、追悼された。
ノーマン・ミネタさん:911テロ
爆破あとの飛行場「乗客安全検査」
ミネタさんに初めて会ったのは、一九九七年頃マウンテンビュウで行われたハイテク分野のパーティだった。サンホセの日本街は、明治時代以来日本から移住した自営農業者が集まる場所だった。ミネタさんの生家もそこに残っている。近くに「一世記念館」があり、北部カリフォルニア、サンタクララ地域の日系移民の当時の様子を展示している。全米で最大規模の日系記念館はロスエンジェリスにある。太平洋戦争がはじまると、彼の両親と兄弟たちは、ワイオミング州の強制収容所に収容された。出所後、カリフォルニア大学バークレイ校ビジネススクールを一九五三年に卒業し、陸軍将校として日本と韓国で情報活動に従事した。一九六七年にサンホセ市会議員になり、一九七一年、アジア系で初めての本土主要米国都市の市長として、サンホセ市長になった。そののち、連邦議会下院の民主党議員(一九七五年から一九九五年)となり運輸委員会で活動を続けた。のちに、彼は世界的防衛企業ロッキード・マーチン社の副社長になった。二〇〇一から二〇〇六年は、クリントン政権で商務長官、ブッシ政権で運輸長官を務めた。共和党のブッシ大統領は民主党のミネタさんの腕を買って運輸長官に任命したのだ。任命後「九一一テロ爆破事件」が同時多発的に起こり、再発防止のために飛行場に乗客検査装置を設置することとなり、当初白人を検査から除外する予定であったと言われるが、ミネタさんは全人種に対して平等な検査をすることを強く主張した。二〇〇一年十一月、地元のサンホセ市は、彼の長年の功績を残すため、同空港の正式名を「ノーマン・Y・ミネタ・サンホセ国際空港」と改称した。ミネタさんは運輸長官辞職のち、「戦略的広告宣伝企業」である、ヒル&ノールトン社の副会長を務める。
アジア系米国人の政治活動
約十年前の二〇〇四年の統計では、米国の中国系、韓国系、日系の人口は、それぞれ、二百三十万、百二十万、百十万人と言う。二〇一二年の連邦議会の上院議員数(百人)下院議員数(四百三十五人)合計五百三十五人、その内、中国系、韓国系、日系は、それぞれ、二人、〇人、四人だ。この数は、それぞれのアジア系人の米国に対する忠誠心の指標でもある。連邦議会の日系議員たちは、ハワイ州とカリフォルニア州から出ている。
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